« 「開成中学・高校」の名前の由来 | トップページ | 貝原益軒の「和俗童子訓」 »

2014年3月 7日 (金)

東京大学の源流!

こんにちは、山本節子です。

今日は、午後から雪まじりの雨が降り、寒い1日でした。

今回は、江戸期には、庶民から武士階級まで「四書五経」に基づいた教育がおこなわれてきたのに、今の日本では、「四書五経」と言っても、なぜ皆さんご存じないのかを見てみたいと思います。

答は、東京大学の源流にあります。

以下、立花隆さん著作の「天皇と東大()」文芸春秋からの抜粋です。

「要するに、東京大学の源流は大きく言って2つのものがある。

1つは法学部、文学部、理学部につらなる大学南校の流れ。もう1つは、医学部につらなる大学東校の流れである」

そして、これ以外に、3つめとして大学本校が紹介されています。

大学本校は、江戸時代の最高学府である湯島にある昌平坂学問所です。

お茶の水駅前にある昌平坂学問所に行かれた方はおわかりと思いますが、孔子のおおきな像が置いてありますね。

そのことからもわかるように、江戸期は「四書五経」を中心とした漢学が中心でした。

昌平坂学問所は、江戸期の東大のような位置づけです。

ところが、明治維新の王政復古で、京都から天皇と一緒に皇学派(国学派)の一団が大学本校へ来ると、大学本校をどのようにするのか、国学派と漢学派が激烈な争いを繰り広げて終始がつかなくなったそうなのです。

そんなにまとまらないなら意味がないと、西洋諸国に追いつくことを最優先としていた新政府の指導者達から大学本校を廃止し、漢学も国学もつぶされてしまったようです。

それで、三派は二派となり、大学南校は東京開成学校へ、大学東校は東京医学校となり、これが東大の源流となったようです。

明治10年に東京大学となりました。

その後、南校は東大法学部となり、東校は東大医学部となったようです。

当時の新政府にとって重要だったのは、国学者や漢学者たちではなく、洋学者だったというわけです。

他の大学は、東大を踏襲していたため、日本の教育から四書五経はなくなってしまいました。

これが、四書五経を多くの人がご存じでない理由のようです。

|

« 「開成中学・高校」の名前の由来 | トップページ | 貝原益軒の「和俗童子訓」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事